先月、1年ぶりに「鹿屋ふるさと探訪会」の21名で、鹿屋市吾平町と肝属郡肝付町の史跡めぐりをしました。多くの場所を回りましたが、主な5ヶ所を以下に紹介します。

吾平町麓地区にある「山古城(やまふるじょう)跡」は、平安時代に平良宗が八幡神社を中心とする大荘園を姶良(今の吾平)に開いた時の居城で、その子孫の得丸氏が数代居住していたと伝えられています。古くから吾平の中心となる小山で、頂上には八幡神社と稲荷神社の石碑があります。

次に、吾平には牧仲太郎という有名な山伏が出た「千手院」というお寺があります。仲太郎は島津久光派の兵道家(修験者)で、跡目相続の「お由羅騒動」に関係したとして、直木三十五の「南国太平記」などの小説にも出てきます。当時は排除したい人を殺す際には、山伏に呪い殺してもらう方法(調伏、呪詛)が一般的でした。そのような中で、斉彬の子供の男5人と女2人が次々に亡くなるという不幸がありました。斉彬派は、これは牧仲太郎による調伏だとして怒りました。調伏の修行には犬を使っていたので、千手院には死んだ犬の霊を弔う犬塚があります。

肝付町には、夏目漱石の東大での教え子で小説「三四郎」のモデルになったと言われる「野村伝四」の生家と長能寺に墓があります。墓には漱石自筆の俳句が刻まれています。伝四は奈良県の高校の校長や県立奈良図書館長を務めました。

次に、薩摩藩家老木曽三川分流工事(宝暦治水事件)の責任者の「平田靱負(ゆきえ)と一族の墓」が丸岡公園にあります。多くの犠牲者と出費を出した治水工事で靱負は責任を取って自刃したとも言われています。岐阜では今だに薩摩義士顕彰行事が続いています。鹿児島市にあった平田家の墓が、直系の子孫であった平田ハナが住む高山町の丸岡公園に移されました。由来が書かれた石碑は岐阜から贈られたものです。

最後に、波見の戸柱神社横にある階段から権現山を登り、「神武天皇御発航伝説地」の石碑近くの山中にある砲台跡を見学しました。石積みの擁壁とコンクリートからなり、砲台跡の中は土砂が埋まっていました。米軍の志布志湾上陸を阻止するために、1944年(昭和19年)8月から志布志湾の両岸に迎撃のための軍事施設が構築され始めました。数か所に設置された砲台の一つです。