是枝 柳右衛門は文化14年(1817年)に今の鹿児島市の谷山で生まれました。是枝家は代々商売をしていましたが家運が傾いたため、柳右衛門が15歳の時に大隅の柏原(今の東串良町)、その1年後に高山(今の肝付町)に移住しました。柏原は柳右衛門の姉の嫁ぎ先があり、当時は海運などで賑わっていました。

柳右衛門は、老父母と弟妹を養うため、朝早くから波見で魚を仕入れ天秤棒を担いで魚の行商をしました。魚のない時は塩を買入れて売り回っていました。

ある日、串良で有名な俳諧師の瀬戸山白菜先生の家に行き、先生から柳右衛門の淡々とした商売ぶりが気に入られ、俳句を習うことになりました。
20歳の時には、柳右衛門は白菜門下の鍼灸師元林について鍼灸を学びました。芸は身を助くということで鍼灸術を修得したのです。

ある日、高山の麓の宇都宮東学院という修験道の塾から、柳右衛門に鍼灸の治療をしてもらいたいと、使いの者が招きに来たので、早速宇都宮家に飛んで行きました。柳右衛門が喜んだのは、実は鍼灸の商売ではなかったのです。東学院の子には東太という学者がいて、若い優れた学者として広く知られていました。柳右衛門は、かねてからどうかして東太先生に近づいて教えを乞いたいと思っていたところであったから、柳右衛門は神きの与えた好機とばかり喜んで、東太先生にお目にかかることができました。
東学院の子の東太先生は、父の鍼灸が終わってから柳右衛門に面接してお礼を言われました。先生は柳右衛門よりは一歳年下でした。

柳右衛門が東太先生に、教えをお願いしたら、東太先生は「貴君は村中を歩き廻って商売をしているから、風雨の日はもちろん夜間に自分が寝た後でもかまわないから、遠慮なく門を叩いて下さい」と言いました。大隅在住17ヶ年、この間東太先生についたのが10数年でした。しかも1日の間に2回もしくは3回も先生の門を叩いて、学問、道徳、和歌などを学び、しかも話し合うことを無上の楽しみとしました。これをもって、先生も柳右衛門の将来を嘱望し、親密な関係ができました。

柳右衛門は32歳で谷山に戻り、私塾を開き約百人の子弟の教育に尽くし、和歌では志士中の最大の歌人となりました。
勤王の志士の柳右衛門が一番先に企図したのは、徳川幕府の大老井伊直弼の暗殺でした。このため単身国を出たが、途中日向の細島で桜田門の変を聞き、後れをとりました。このまま引返すわけにはいかないと決心した柳右衛門は、各地各藩の有名な志士を尋ねて互いに告示を談じ、また天下の形勢も探ることにしました。それから京都に入って、当時勤王の領袖と仰がれていた田中河内介に会い、更に河内介の手を経て中山大納言の父子や、右大臣の近衛忠熈公にも面談を許され、討幕と王政復古について、意見を具申しています。
彼に会った京都の公家、勤王の志士、薩摩藩の大老は、柳右衛門の人格と学識に感銘を受けて支援しました。

最後は寺田屋事件の関係者として屋久島に流され、文久4年(1864年)に48歳の生涯をとじました。国を憂えて自ら討幕運動を指導した全国にただ一人の庶民志士でした。

この文章の原典とした黒木弥千代著『幕末志士 是枝柳右衛門』には、以下の柳右衛門評があります。
「柳右衛門の偉かったのは、天性の資質に加うるに、恩師宇都宮先生の”身を殺して仁をなし、生きるを捨てて義を取れ”との教えによることながら、天秤棒を担いで魚塩を売り歩いていた小商人でいて、勤王のために一身を捧げたことである。士農工商の別ある時代、殊に薩摩では士族でなければ全く頭の上がらなかった環境のもとで、金もなければ藩のバックもない素商人でありながら、藩士でも出来なかった国事に尽瘁したということである。」

さらに柳右衛門の偉かったのは、封建時代に町人の身でありながら、学問を深めていたということです。それであればこそ志士として立てたわけですが、その学問の深さには全く驚くのほかはありません。海防急務論にしても井伊大老斬奸状にしても、また短歌に長歌に、勤王節に遺訓に、その他多くの遺墨に、これらは何れも警世上に教育上に貴重な文献として残っています。短歌の如きは数百首にのぼり、志士中での最大歌人とされています。例えば「隼人の薩摩のこらか劔たちぬくとみるより楯は砕くる」の如きは、歌人の川田順先生をして、維新の全国志士のなかで最も優れた作品であると絶賛せしめています。