7世紀末まで九州に日本を代表する王朝があり、太宰府がその首都であったとする九州王朝説があります[1]。

内倉武久氏の『大隅』誌の論考[2]によると、「大和政権」は奈良時代、701年に発足した新しい政権であり、それ以前は「九州倭(いい)政権」が全国を支配していました。九州倭政権が制定していた「九州年号」には、継体天皇16年(522年)の「善記」から「大長」まで31の年号があります。九州年号の使用例は、鹿児島から青森まで全国で約400件も発見されています。なお、「大和政権」が初めて建てた年号は701年の「大化」です。このことは『日本書紀』の次に作られた『続日本紀』に書かれています。

『大隅』第31号(昭和63年)に、篠原 亮氏が投稿された「田代之宝光寺古年代記の研究」と題する論考[3]があります。その中に31の九州年号が記録されています。ただし、一般的な九州年号の最後にある「大長」は無く、一般的な九州年号にはない「聖徳」と「白頭」があります。また年号には転記ミスと思われる誤字が多いです。

田代(現在の鹿児島県肝属郡錦江町田代麓)の宝光寺は南北朝時代に田代の領主であった田代肥前守以久が、鬼ヶ宇都に建立し、後に田代高等学校があった地に移転し、明治2年に廃寺となりました。

篠原氏はこれらの年号を「当時仏教界に於て用いられた私年号」としています。現在では、九州年号の使用例が全国で約400件も発見されているので、それらと照合することで、「田代之宝光寺古年代記」に記載されている年号が、九州年号であることが容易に分かります。

表1に一般的な九州年号と田代之宝光寺古年代記に記載されている年号を対比させました。田代之宝光寺古年代記は書き写しが複数回か行われたためか、類似した漢字に誤記されたと思われる12の九州年号があります。また、一般的な九州年号には無い年号が2つ(聖徳と白頭)ありました。

内倉武久氏によると、鹿児島県内の九州年号・発見例は、従来の「開聞古事縁起」に記載されているものを含めて70数個となり、全国一です。

なお、平成7年に刊行された『鹿屋市史』上巻にも、以下のように「九州年号」の記述があります。

参考文献

[1]例えば、内倉武久『大宰府は日本の首都だった』 ミネルヴァ書房 2000年

[2]内倉武久「熊曾於族・継体は朝倉市に都していた」 『大隅』第64号 2021年

[3]篠原 亮「田代之宝光寺古年代記の研究」 『大隅』第31号 1989年