「鹿屋ふるさと探訪会」が主催して、9月29日に21名が車に乗り合わせて、主に錦江町と南大隅町の平家落人伝説地を回りました。

 

1 平家の落人伝説地の探訪

最初に、錦江町の段・中野集落に行き、炭焼小屋の前で、白井森芳氏から平家落人が源氏の追っ手から逃れて生き延び、再起を期すために、南大隅の落人集落には次のような独特の風習があることを聴きました。

正月に門松を立てずに椎の木の枝を立てる、正月の三日間火を外に出さない、源氏方の白いものを禁忌とした、居住地に昔住んだ京洛の地名やそれをもじった地名を付けた、七を縁起として使う(七人塚など)、木やり歌と木起こし歌が伝わっており、神社の鳥居曳や鳥居建ての時には、平家の落人と言われる段家の当主がまず謡うことになっているなどです。

なお、南九州東回りで逃げた平家は、最後の長門の壇之浦の戦いには参加していないので、地名の「段」は、恐らく屋島の壇ノ浦から採ったようです。

段集落の名前のない神社に行き、特殊な形の板碑と連碑、庚申塔、社殿を見学しました。源氏に見つかっても怪しまれないように白く塗ったと思われる鳥居をくぐり、40段ほどの階段を昇ると社殿があります。社殿の中には赤い祠がありその隣には観音像と如来像らしき物(御神体)が祀られています。表からは見えない肝心要の祠は平氏の赤で塗っているのでしょう。社殿は手入れが行き届いており、神社仏閣を敬い、大事にする平家の血を引いている集落の人々の矜持に触れた気がしました。

次に旗山神社を見学しました。地名の押領司(使)については、この地に平安の押領使という職を持った者がいて、その名が地名として残ったものか、平家の落人にかって押領司(使)の職にあった者がいて、その名残として地名がついたものかは不明です。

この社は古くから旗山大明神と呼ばれ、大根占町字城元押領司に鎮座します。昔はこの地を禰寝院二十枝山(はたえだ)と呼んでいたが、島津氏がこの山中の竹を戦いの旗竿としたため、旗山と呼ぶようになったと伝えられています。

この神社の創建は定かでないが、棟札の中で最古のものは慶長20年(1615)4月のものがあるので、それ以前であることは間違いありません。この年に大阪夏の陣があり豊臣氏が滅亡しています。

 この神社の祭神については諸説あるので、ここでは『三国名勝図絵』の記録を紹介します。「本殿に南北2基が並び、南位を旗山大明神、北位を狩長大明神という。旗山大明神の祭神は大戸道尊(おおとのじ)、大戸閉尊(おおとのべ)、あるいは猿田彦ともいう。」狩長大明神の祭神には触れていません。境内にある伽藍神と呼ばれる樟の老木は、幹廻り15.7m、高さ23.7mあり、樹齢は千年以上と言われています。

また、旗山神社には、正月初めに行われる「柴祭り」があります。「柴祭り」は大隅半島では20例があるようですが、ここの「柴祭り」が最も貴重な形で残っているそうです。


半ヶ石集落に行き、平家の末裔と言われる釘田家に行きました。釘田家は部落の中央にあり、昔よりこの屋敷を御前と尊称され、最近まで御宝前と刻された石碑も残されていたそうです。

系図によれば、慶長八年の頃、平帯刀の代に平姓を改めて久木田と名乗り、家宝の名刀一振りを島津家久に献上し、青銅千疋を拝領すと記録にあります。

釘田家は明治初年までは、久木田の文字を用いていましたが、地租改正の時に釘田に変わったそうです。

屋敷内に氏神の社があり、系図一巻と家宝が先祖代々伝えられています。系図一巻、刀、鍔(つば)、皮製の陣笠、木桶、木製の鐙(あぶみ;乗馬の際に足をかける道具)と鞍を見学しました。鍔は平家の蝶の文様になっていました。ここの系図と宝物が圧巻で、参加者は初めて見て驚き感激していました。次に平重盛の末子といわれる釘田(久木田)家の祖、平常長の娘(姫)の墓(写真略)にも行きました。

2 その他の探訪

その後、錦江町田代の鵜戸野という集落の神社に行きました。神社の額束には近津神社・鵜戸神社という二つの名が標されていました。境内にはイスノキや樅木(モミノキ)の大木がありましたが、その中で一番大きな樅木1本が倒れ、神社の扉は閉められていました。下を流れる鵜戸川の近くにある洞窟は崩れて埋まったそうです。

社伝に、鵜戸神社は其の地幽邃にして、人々が恐れて乱りに近寄らないため、その遙拝所として当神社を建立したと伝わっています。祭神の主神は、鵜茅不合葺尊(ウガヤフキアエズノミコト) です。

花瀬公園に近く、雄川と大藤川の合流地点に鳥居がある華瀬(はなせ)神社に行きました。創建は永禄8年と伝えられ、川と木々に包まれた古くからの神聖な場所です。外の2つある祠に夫々2体の公達と姫らしき木像が収められていました。

猪狩倉(いがくら)集落の日枝(ひえ)神社に行きました。この神社近くには上八重、小豆はえ、松はえという地名があり、その地名の由来について聴きました。八重(はえ・ハエ)とは陸稲を作る焼畑のことで、それが地名になったのだそうです。現在もこの地方では陸稲のことを「ハエモン」と言うそうです。

珍しい半下石の田ノ神像を見ました。左足は下駄履き、右足は草履履きの面白い田ノ神でした。

帰りは農免道路を通り、途中でロウソク状の立神(たちがみ)岩を見学しました。指宿沖の鹿児島湾内にある阿多北部カルデラが約11万年前に大噴火し、噴出物が溶結凝灰岩となって冷却時に柱状節理ができ、その後の風化に耐えて残った岩の柱です。同類の岩が吾平町の立神(たてがみ)公園にもあります。

以下は花瀬千畳敷の横で撮った参加者の記念写真です。

(文責:朝倉悦郎、白井森芳)