平安時代の末期の元暦2年/寿永4年(1185年)3月24日に、平家が壇ノ浦の戦いで滅びると、平家の落人は全国各地に逃げたようです。
幕府を開いた源頼朝による「平家追討命令」は落人を恐怖の底に突き落とし、追手に見つかりにくい山岳地帯(祖谷、白川、五家荘、椎葉など)、離島(対馬、硫黄島、沖縄など)、海岸の断崖(大浦、辺塚、入船城など)に住み着いたと言われています。
垂水市の牛根出身の永井彦熊氏は、『落日後の平家』(昭和47年発行)と題する大著を著し、全国の平家落人部落(伝説地)や平家古文書の調査結果を報告されました。
その報告によると、日本全国の平家の落人部落は340ヶ所、そのうちの南九州は150ヶ所の多さです。とりわけ大隅半島には多いです。
『落日後の平家』によりますと、平家の落人部落には、追ってから逃れて生き延び、再起を期すために、地域によって差はありますが、以下のような独特の生活様式などがあることが書かれています。
① 他部落の人と交際や結婚をしない。
② 落人部落が見つからないように、鳴き声から場所がわかる鶏を飼わない、下流にものを流さないように川での洗い物に極度に注意させた。
③ 源氏方の白いものを禁忌とした。源氏の標識である白いもの(鶏、馬、花、鷗、餅など)を忌む。
④ 独特の正月の仕切りがある。門松を立てずに椎の木の枝を立てる、餅の代わりに大根の輪切りを供える、正月の三日間火を外に出さず・金物を使わないなど。
⑤ 「開けずの箱」がある。落人が苦難の記念に残したもので、大したものは入っていないようです。
⑥ 部落に残る宝物がある。陣羽織、打ち掛け、鎧、馬具、印籠、太刀、重箱などです。
⑦ 大家族制度を残す。戦後に本制度は無くなったそうです。
⑧ 学問・文化・風流を好む。
⑨ 神社仏閣を崇拝する。伊勢神社、熊野神社(大隅には13社もある)、天満宮、虚空蔵菩薩、観音、経塚、磨崖仏など。
⑩ 焼き畑で粟、稗、麦、大豆などを栽培し、狩猟もして、自給自足生活をする。
⑪ 田畑や山林を共有する。
⑫ 居住地に昔住んだ京洛の地名やそれをもじった地名を付けた。荒西山(あらしやま)、大原、白川、居世神社(伊勢神社)、桃園、花園、小路、小野、川辺など。
⑬ 七を縁起として使い(七人塚、七枝の杉を神に供えるなど)、草履を宝物にして履かない。
⑭ 河童伝説が残る。長門壇ノ浦で活躍した能登守教経の奥方・海御前にまつわる伝説と伝わっています。
現在は他地域との交流が進み、上記のような生活様式はほとんど残っていないと思いますが、実際はどうなのか興味があります。