終戦記念日がある8月になると、鹿屋から飛び立った特攻が思い出されます。日本で最も多くの特攻隊員が飛び立った鹿屋海軍航空基地からは908名、串良海軍航空基地からは363名が出撃し、戦死しました。以下の写真は、鹿屋と串良の慰霊塔と復元したゼロ戦です。
特攻隊員は、各地の飛行隊から自分の用いる特攻機を操縦して鹿屋にやって来ました。そして、翌日か翌々日には、発進してゆく。その後に、また新しい隊員と飛行機とが到着してまた出撃する、という繰り返しでした。
鹿屋航空基地には、報道班員として川端康成、山岡荘八、新田潤の3名の小説家が昭和20年4月末に来ています。山岡荘八の鹿屋の航空隊基地内での体験が残されています。それは、出撃前の息子に会うために鹿屋を訪れた、ある母親の話です。河原宏著『日本人の「戦争」 古典と死生の間で』(築地書館)から以下に引用します。
『ある日、基地に隊員の中尉の母親と、妹もしくは許婚者とおぼしき若い女性の二人が訪ねて来る。最後に一目面会をと望んで遠路を鹿屋まで辿りついたのだった。応対は山岡にまかされた。ところがその中尉は前々日に出撃して、既にこの世になかった。山岡はその事実を口にすることができず、二人を前に中尉はすでに他の基地に転勤したと取り繕って隊内を案内することとなった。ところが彼が立ちすくんだのは、隊員たちの部屋には戦友が作った中尉の位牌が飾ってあったのだ。その時、若い女性が耳もとで囁いた。「お母さんは字が読めません」。その後の振る舞いを彼は自分でも覚えていない。自分は巧みに取り繕ったつもりだが、二人と別れる時、もう一度衝撃に襲われる。母親は「ありがとうございました。息子がお役に立ったとわかって、安心して帰れます」と丁寧に挨拶をして去っていった。彼は呆然として二人の後ろ姿を見送るばかりだった。』
この母親は、息子がすでにこの世にいないことに気付き、案内する山岡の苦衷を思いやり、取り乱すことなく礼儀正しくして帰ったのです。この聴かなくとも分かる洞察力と、凛とした態度はいかにして身につけたのでしょうか。これも忘れがたい特攻にまつわる話です。
鹿屋航空基地史料館には、「永遠の0」にも登場するゼロ戦(零式艦上戦闘機五二型)、特攻隊員の遺影や遺書などが展示されています。