吾平町下名の井神島の南にある田んぼの中に小山があります。

頂上には天文3年(1534年)に造られたと言われる徳丸権現(徳丸神社)があるので、この小山を権現島と呼んでいます。

この付近は肝付氏と島津氏の激戦地と伝えられています。肝付勢は、この辺りのぬかるみに大木を浮かべ、島津勢を迎えました。島津勢はぬかるみと大木に悩まされて、けが人と死者がたくさん出たそうです。勿論、肝付勢にもたくさんの犠牲者が出たそうです。

前回の案内のように、島津家11代・島津忠昌は、永正3年(1506年)に肝付家14代・肝付兼久の居城である高山城を攻めているので、伝説の権現島付近での戦いは、その一連の戦いであったと考えられます。

戦いの後で、死者とその鎧、兜、刀など多くの物を権現島に埋めたそうです。ところがその後、夏の夜には権現島から巨大な鬼火(青白い火)が、高山城へ向かって飛んで行くそうです。