「柳井谷の陣跡」は、永正3(1506)年11代島津忠昌が高山城主14代肝付兼久を攻撃したときに、総大将がいる本陣とした所です。以下は肝付観光協会の地図を加工したものです。

2ヶ月かけた大合戦で、両軍の放つ矢は空中でぶつかり、折れた矢が谷間に散乱しました。土地の人々は、この谷間を「矢おれ谷」と呼んでいましたが、それがなまって「柳井谷」というようになったそうです。

この合戦では、人吉の相良近江守長毎[ながつね]、えびの・小林の北原氏、飫肥の島津忠朝[ただとも]、志布志の新納忠武[にいろただたけ]など、肝付氏を支援する軍勢が多く、高山城は陥落せず、島津軍は鹿児島に引きあげました。

島津忠昌は争乱を憂いて永正5(1508)年に清水城で自害しました。忠昌の逆修供養塔は「柳井谷の陣跡」の下の渕輪にありましたが、今は道隆寺跡に移設されています。

合戦後、土地の人々が折れた矢を拾い集めて塚に納めました。その塚を「矢塚」と言い伝えてきました。

2020年1115日(日)に開催する「現地研修会」で行く所です。

(文責:朝倉悦郎)