日本百僧の一人に数えられる名僧の玉山玄堤(ぎょくざんげんてい)禅師は、若い頃に京都南禅寺の大明国師の跡とりとなり、後に2回、元に渡って修行しました。
2回目の帰国の際に暴風雨に遭って浜田海岸に漂着しました。現在、浜田海岸に志布志の大慈寺が昭和59年(1984年)3月に建てた「玉山禅師上陸之地」記念碑があります。なお、当時の浜田は葦ヶ港と呼ばれ、中国や琉球方面へ航海する外航船の寄航港として繁栄していました。
玉山禅師は、その後、浜田海岸近くの古寺屋敷に臨済宗の寺「呑海庵」をむすんで、住民の教化に努めました。
その後、大姶良城主の楡井頼仲(1301-1357)の招きにより、玉山禅師は大姶良麓に「瑞雲山龍(竜)翔寺」を建立して初代住職となりました。当地方で最も古い寺です。この寺は560年ほど続きましたが、明治初年からの廃仏毀釈で壊されてしまいました。楡井頼仲は玉山禅師と同じ信濃の出身であり、同じ井上氏の血族であったことが知られています。
さらに、志布志の松尾城主となった楡井頼仲は、大隅肝付郡の波見にあった帝釈寺を移築して、興国元年(1340年)に「大慈寺」と改め、玉山禅師を開山始祖(初代住職)に迎えました。玉山禅師は、大慈寺で正平6年(1351年)に135歳で生きながら入定したと伝わっています。玉山禅師と同じ元の天童山で修学した禅者龍山徳見(真源大照禅師、1284-1358)は、「玉山和尚入祖堂」に玉山禅師は90歳の生涯を終えたと書いています。
なお、楡井頼仲は北朝方の畠山直顕(七郎・修理亮)と合戦して敗れ、南朝の正平12年(1357年)に大慈寺内の宝地庵において自害したとされています。
現在、残っている寺は「大慈寺」だけです。
(文責:朝倉悦郎)