以前に、「含粒寺跡(鹿屋市吾平町と南町)」で含粒寺の歴史の概要を書きました。
今回は、吾平の含粒寺の史跡を紹介します。
現在の含粒寺跡には、寺を建てた仲翁和尚(
7代島津元久の長男)の母と妹の墓があったとされる石柵と歴代のお坊さん等の墓が林の中にあり、そこだけが見学場所になっています。


ところが、この寺があった当時は広大な敷地があり、中国の有名な景勝地である廬山に似ていたので小廬山と言われていました。その美しい景色を示す「山中八景」は、山頂羅漢、屋後の瀑布、座禅石、南池白蓮、大谷藪竹、門頭屏風岩、囲山流水、寺前石橋と呼ばれていました。

その一つである「門頭屏風岩」が、含粒寺跡の近くにある民家の敷地内に残されています。家主の許可を得て、見学しました。地上約4mの所には石仏が刻まれています。その他の七景の場所は不明です。


仲翁和尚は67歳で亡くなり、「門頭屏風岩」の近くの田で火葬され、そこに「梅寿仲翁灰塚の碑」が建てられたと伝わっていますが、今は石碑はなく石柵だけがあります。


寺の前には立派な仁王門があったと言われ、そこに置かれていた2つの「仁王像」の残欠が門前地区に残されています。また、寺にあって明治初年の廃仏毀釈で他所に移され放置されていた「釈尊像」は鵜戸神社に移設されています。


含粒寺には、御南御前(16代肝付兼続夫人、島津忠良・日新斎の長女)の墓もあったとも言われ、まだ謎解きは終わりません。