含粒寺はもともと吾平町門前にあった禅寺で、南北朝時代、島津7代元久の子仲翁守邦が開山し、明治2年に廃仏毀釈で廃寺となりました。今は、仲翁の母と妹の墓があったはずの石柵と僧侶墓石28基が残っています。
その後、南にある玄朗寺と合体させて含粒寺としました。ここの石造群は見事で、仁王像2対、地蔵、観音、薬師などが残っています。
門の横にある六地蔵塔〔側面に6体の地蔵像が彫られている〕の最上部の笠蓋の裏には、永禄八年(1565年)の庚申供養に結集した人々の氏名が墨書きで記されていて、455年経過した今でも文字は鮮明です。六地蔵信仰と庚申信仰〔庚申の日に徹夜して眠らず身を慎めば長生できるという信仰〕の習合体としては県下で一番古いものとされます。