古代日本における、今の鹿児島県本土の人々を大和朝廷は「隼人」と呼んでいました。隼人が大和朝廷と戦った「隼人の乱」から、今年は1,300年目です。

1年半に及ぶ乱のキッカケは、西暦720年(養老4年)に、大隅国府の国司(陽侯史麻呂;やこのふひとまろ)が大隅隼人の襲撃を受け、今の鹿屋市永野田付近で絶命したことでした(永野田に国司塚があります)。朝廷側は、歌人としても有名は大友旅人を征隼人持節大将軍として、1万人以上の兵を派遣し、鎮圧しました。対する隼人の兵力は数千人でした。

隼人が最後まで交戦した拠点が、霧島市国分の城山公園辺りであったとされています。JR隼人駅の近くに「隼人塚」があります。多重石塔3基と四天王石像4体が立っています。この塚は隼人の霊を鎮めるためにできたとも言われています。


その横に「隼人塚史跡館」があり、平安時代の正国寺石仏など、隼人に関連する資料が展示されています。


研究者によると、隼人は上下関係による縦型社会ではなく、助け合いながら共同生活をする穏やかな民でした。「乱」は大和朝廷から見た歴史観で、隼人にとっては「侵略に対する抵抗」でした。

 

(文責:朝倉悦郎)