奈良時代、和銅6年(713年)に、大和朝廷は日向国(宮崎県鹿児島県の本土部分を含む広域)から分国して大隅国が設置され、国衙(国の役所)が今の霧島市国分あたりに置かれ、朝廷の支配下に入ることになりました。720年に大隅国初代国司・陽候史麻呂(やこのふひと・まろ)が国内巡検のため鹿屋に入ったところ、大隅隼人に殺害される事件が起こり、これを契機に1年半に及び大隅国内は朝廷対隼人の争いが勃発しました。

大隅隼人に急襲された国司側は、大姶良方面へ逃げたが、追って来た隼人軍と今の星塚あたりで戦い国司方は次々と倒れました。国司は下の名貫川尻を渡って早馬が丘に駆け上がり、馬をそこにつなぎ自殺を試みたが死にきれず、下の泉にすべり降りて水を飲み、そのまま息絶えたといいます。その場所がこの「国司塚」(国司どん)であり、当時の戦死者を供養するための塚であると伝承されています。

永田家の氏神はこの国司どんの山であるといわれています。年貫神社の宮司が、毎年旧暦10月の中丑の日の晩に潔斎して祭祀に臨み、家から塚まで黙止して出かけ、祝詞は黙読であげられます。塚でお供えする金幣18本・白幣36本の合計54本の準備も、毎年、宮司が自生の竹を切って手作りされます。さらに永田家では餅、野菜、果実などを供えます。
永田家では、1,200年有余年こうして祀ってきたと伝えられています。

なお、この場所は、女性が入ると女性に災いがあるとして、「女人禁制」となっています。