明智光秀の長男・明智光慶が曽於郡大崎町永吉に逃れ、柳別府という姓を名乗って生き延び、その子孫は現在も当地に住んでいるという伝承があることが、「大隅史談会」で話題になっています。
その発端は、『大隅』64号に掲載の「久光の影武者 久木山泰蔵烈伝(前編)」(橋口滿著)にあります。久木山泰蔵のご子孫から、「大崎町に明智光秀の長子の子孫が居るという話を大阪府立大学の知人から聞きましたけど、ご存じですか?」という問い合わせが、大隅史談会事務局にあったからです。
たまたま、史談会の理事である高瀬幸雄氏(大崎町在住)が、歴史研究会の月刊誌『歴史研究』に掲載された「激動戦国を生き抜いた明智光秀の長子光慶」を読まれており、後述の現地見学につながりました。なお、『歴史研究』には、関連の報告が2回掲載されていました。
第1報(2016年9月 第644号)で、谷本英子氏(岐阜県在住)が「激動戦国を生き抜いた明智光秀の長子光慶 ~ 明智光秀の長子 光慶は、鹿児島大崎に逃れた~」と題して、弟の柳別府武志氏(大阪府在住)が引き継いだ一子相伝の内容、光慶が僧侶として関係した寺での調査結果、子供の頃の記憶を頼りに作成した大崎町永吉の道智城跡にあった柳別府本家の屋敷、石塔、墓、神社、道路などの「柳別府本家敷地図面」を示されています。参考のために、以下に現在の地図(右側)と並べて「柳別府本家敷地図面」を示します。図中の数字は、後半に書いた今回見学した場所です。
第2報(2021年4月 第690号)では、柳別府武志氏が「惟任日向守と長子光慶 ー光慶末裔が語る乱世戦国からの土岐明智一族の再興ー」と題して、大崎に逃れた光慶が島津家の庇護のもとで、家康・家光の時代に明智家再興に至るまでの経緯を調査、考察した結果を書かれています。
7月12日に大隅史談会の役員4名で、大崎町永吉にある柳別府本家の墓がある墓地に行きました。そこで、偶然に柳別府本家を継ぐ柳別府シヅ子氏(81歳)に会い、本家の”墓”①、本家の跡地や関連の場所を案内していただきました。『歴史研究』に報告を書かれた谷本英子氏と柳別府武志氏は、シヅ子氏の”いとこ”だそうです。
お墓の家紋は明智光秀の「桔梗紋」で、銘碑には柳別府シヅ子氏の父親の清蔵氏(「柳別府本家敷地図面」中に”清蔵長男宅”と記載)と祖父の助太郎氏の名前が刻んでありました。以下の右側の写真はシヅ子氏と本会役員です。
「柳別府本家敷地図面」にある”氏神どん”②には鳥居があり水神様他が祀られていました。
”柳別府本家跡”③は、今ある電柱の倍くらいの高さがあった丘が削られて、砂置き場になっていました。村の中心の”どん(殿)の下”④で、柳別府シヅ子氏から、ご本人は今でも地元で「どんのシヅ子」と呼ばれているとうかがいました。
柳別府本家敷地にあった「菅原」「明智」「柳別府」の石碑や墓石群の行方は不明ですが、”柳別府庚申供養塔”⑤だけは近くの山中に移設されていたので、見学できました。庚申供養塔の横には、肝付氏系統の逆修五輪塔(生前に作った墓、写真の右側)もありました。
最後に、柳別府シヅ子氏宅に行った際に、第2報が載った『歴史研究』(第690号)を大隅史談会に寄贈していただきました。