沖縄戦後の本土決戦の第一候補に志布志湾は想定されていました。そこで、昭和19年(1944年)8月から志布志湾の両側に迎撃のため軍事施設が構築されはじめました。
内之浦の海蔵集落のある半島一帯は戦略的価値が高いと認められ、志布志湾岸では最も大きな要塞が構築されました。
戦跡を踏査された専門家の情報では、この地域には砲台が7ヶ所、砲台の観測所としてトーチカが6ヶ所にあったそうですが、その4ヶ所が今でも山中に残っています。その内の一つが、見学できるように整備されています。従って、以下の現地の説明板には、一部間違いがあります。
国道448号線にある海蔵バス停から、車が通れる細い道に入って行きますと、「海蔵地区要塞跡入口」の案内板があります。