伊作島津の日新公忠義が、次男の忠将が永禄4年(1561年)に肝付氏の守る福山廻城の合戦で討死したことを憐れみ、忠将の子以久に垂水島津家を興させました。

島津氏は、本家を中心に一門家(垂水・加治木・重富・今和泉)があり、垂水島津家は最上位の家臣でした。

垂水島津家墓所は、垂水島津家の菩提寺であった心翁寺(しんおうじ)の一部で、6代・忠紀(ただのり)以降の歴代領主とその一族・忠臣の墓碑等石造物が多数存在します。

領主夫婦の墓は並立して設置され、正面から向かって右側に領主墓碑、左側に正室墓碑が置かれ、領主墓碑の方が夫人墓碑よりも高く作られています。いずれの墓碑も宝篋印塔(ほうきょういんとう)と呼ばれる型式をしています。

現地にある説明板の「垂水島津家の歴史的背景と墓石の特徴」と「歴代領主の功績・エピソード等」は、見学者には有難い案内です。