島津氏の分家・伊作氏の出身の島津忠良(ただよし)は、島津氏の中興の祖として著名で、日新公(じっしんこう)とも呼ばれています。その忠良の次男の忠将(ただまさ)が永禄4年(1561年)に肝付氏の守る福山廻城の合戦で討死したことを憐れみ、慶長4年(1599年)に忠将の子、以久(ゆきひさ)に垂水島津家を興させました。初代を忠将とする説もあります(下記の「歴代領主の功績・エピソード等」)。

島津氏は、本家を中心に一門家(垂水・加治木・重富・今和泉)があり、垂水島津家は最上位の家臣でした。

垂水島津家墓所は、垂水島津家の菩提寺であった心翁寺(しんおうじ)の一部で、6代・忠紀(ただのり)以降の歴代領主とその一族・忠臣の墓碑等石造物が多数存在します。


領主夫婦の墓は並立して設置され、正面から向かって右側に領主墓碑、左側に正室墓碑が置かれ、領主墓碑の方が夫人墓碑よりも高く作られています。いずれの墓碑も宝篋印塔(ほうきょういんとう)と呼ばれる型式をしています。

 

現地にある説明板の「垂水島津家の歴史的背景と墓石の特徴」と「歴代領主の功績・エピソード等」は、見学者には有難い案内です。

 

(文責:朝倉悦郎)