2月28日(土)に鹿屋の「ふる里探訪会」のメンバー16名で、吾平地区の史跡巡りをしました。今回初めて、少し危険でしたが、福師岳にある修験者の修行場跡(権現穴と不動明王)に行きました。
1 鵜戸神社境内の巨大五輪塔と野町観音と釈尊像
巨大五輪塔(市指定文化財)は、得丸氏支族牧山氏の菩提寺であったであろう西目川路薗入寺跡にあったものである。「正安元秊歳己亥十月六日孝子等敬白」と刻まれている。正安元(1299)年は鎌倉後期の初め頃になる(今から726年前)。年号の判明する五輪塔の中では県下でも古いもので貴重な史料である。一説には鹿屋氏初代宗兼の追善供養塔といわれる。観音菩薩像と含粒寺(島津氏7代元久建立)跡にあった釈迦像もある。
隈元信一氏によると”鹿屋氏初代の宗兼は肝付五代兼石の子である。鹿屋家を興すが津野氏との争い(弁済史と地頭)などで領地が少なくなっていった。宗兼は元来、領地経営に疎い人で息子にも追い出されたという。火輪部はこの五輪塔の物ではない。移設された時に間違えて据えられたのでしょう。この五輪塔も二つの神社(八幡神社と西目川路薗入寺)の争いの為、ここに移されたのです。”
2 赤野の石塔群
赤野石塔群は鹿屋農業高校吾平分校(昭和23年~63年)の跡地にある。巨大で歴史的にも古く見ごたえがある。五輪塔1基、宝塔1基、板碑2基、すべて鎌倉時代後期のものである。板碑は正中二(1325)年十月六日の紀年号があり(今から701年前)、身部に薬研彫の梵字がある。京都の斎藤先生によれば、梵字研究の貴重な資料であるという。宝塔の中央の請花紋様(蓮の花を模した飾り)は冨山一族の志々目氏のものである。他に小型の五輪塔も数基ある。
隈元信一氏によると”左端が五輪塔で、火輪の肩の落ち方に鎌倉時代の特徴が良く出ています。左から2番目が宝塔で、塔身が長いです。これが大姶良の冨山(獅子目)一族の特徴なのです。空輪(最上部)は欠けておりますが獅子目氏の紋様です。本来は輪が9つあるはずなのです。輪の数で大よその年代が判別できることは以前、説明しました。付け加えると輪が浮き彫りされているのは時代が古くなります。線で表現されているのは時代が降ります。
1基(向って右)の板碑の上部に「バク」という梵字が彫られています。これは釈迦如来を表しています。身部には梵字の「ウウーン」(愛染明王)が彫られております。もう1基(向って左)の板碑の上部にはキリーク(阿弥陀如来)が身部に「ウウーン」(愛染明王)が彫られております。これらの石塔は、冨山一族(獅子目氏)が栄華を極めた頃のものです。
これらの石塔から、大姶良には格式のある文化があったことが推察できます。栄華を極めた冨山一族も時代が降ってくると、肝付氏や祢寝氏との領地争いの結果、蚕食されて一族、家臣は両氏の傘下に組み入れられて行ったようです。”
3 下名川北天神原(しもんみょうかわきたてんじんばい)の五輪塔
五輪塔二基、全体が揃っていない水輪二基、空輪一基がある。五輪塔二基は、鎌倉時代後期、中世初期から姶良荘のあたりを治めていた得丸一族の支族末次氏一族の夫婦の墓として建てられたものと考えられ、下名川北天神原にあった明蓮寺阿弥陀堂にあったものと思われる。

4 中尾遺跡
中尾地下式横穴墓群では、これまで8基の地下式横穴墓が確認されており、その中でも6号墓からは象嵌装大刀の外に鉄刀が2点、鉄剣が1点、鉄鏃が7点(5個体、2集合体)、耳環2個、刀子3点出土し、平成23年2月23日鹿屋市の指定文化財となりました。7号墓からは県内初の発見となった円頭大刀も見つかっており、この墓域に埋葬された人はかなり位の高かった人ではないかと考えられています。中尾地下式横穴墓群の時代は、出土した土器などの遺物から推定して6世紀後半から7世紀初頭とされています。
「象嵌装太刀」の象嵌とは、「象」がかたどるという意味を持ち、「嵌」がはめるという意味を持っていることから、異なる材質同士を嵌め込む技法のことで、この刀には鉄に銀がはめ込まれています。刀とツバとハバキに心葉文、ハバキの上部と柄頭の金具に二重半円文が施されていて、鹿児島県では象嵌技法が施された出土品としては初めての発見となりました。また、ツバに心葉文を持つ刀は全国でも16例目、九州では4例目と大変貴重な出土品です。

5 含粒寺跡の石像・庚申塔
含粒寺は島津七代元久の建立という。開山は七代元久の子、仲翁守邦である。元久には男子は仲翁守邦のみであったが僧(曹洞宗)にした。開山にあたり、付近の風景が中国の廬山に似ていることから、この地を子廬山と称した。島津氏の隆盛とともにこの寺も栄、門前の地名もこの寺から始まったという。明治2年に廃寺となったが、後に鹿屋市南町の元朗寺と合併し、含粒寺として現在に至っている。
◯奥が青面金剛像(庚申供養塔):庚申信仰は、人間の体内にいる三尸(さんし)の虫が、60日毎に巡る干支の庚申(かのえさる)の夜に天にのぼってその人の罪過を天帝に告げるために命をちぢめられるとする中国の道教の教えに、仏教的な信仰が加わったとする考えが一般的である。そのため「長生きしたければ、三尸の虫が天帝の元へ行かないように庚申の日は一日中眠ってはならない」と伝えられてきて、集落の人々が集まって一晩を明かした。
◯手前から2番目が釈迦如来像:螺髪(らはつ)がしっかり彫られている。僧衣も美しく彫られており、貴重な像と言える。
◯手前が田の神像:スリコギとメシゲを手に持つ、肝付地方の典型的な田の神である。

6 含粒寺跡
7代島津元久の長男・和尚が正長2(1429)年に建てた曹洞宗・福昌寺の末寺である。忠翁和尚は文安2(1445)年に亡くなった。吾平町史によると、忠翁和尚の母(島津元久夫人)、御南御前(16代肝付兼続夫人、島津忠良・日新斎の長女)の墓もあったが、今は石柵だけが残る。含粒寺は山中八景といって、当時は八つの美しい景色(山頂羅漢、屋後の瀑布、座禅石、南池白蓮、大谷藪竹、門頭屏風岩、囲山流水、寺前石橋)を見ることのできる場所であった。明治2(1869)年に廃寺になり、大姶良の南地区の玄朗寺と合体して移築されて、再興した。
含粒寺の入口近くの岩に磨崖仏が刻まれている。これが「門頭屏風岩」である。この下で忠翁和尚が荼毘に付され、墓があったと伝わっている。今は墓は無く、石柵だけが残っている。

7 上名西目川路の逆修搭群
昭和52年7月に、山中に散乱していたものを並べ直して復元した逆修搭群です。ここ西目川路には、いくつかの氏族と時代が異なる逆修搭群と板碑(六地蔵)があります。隈元信一氏によると、”南北朝時代(吉野時代)の袮寝(ねじめ)氏と思われるもの10基、富山(とやま)氏が7基、他に戦国時代のものが混じっています。戦国時代の石塔は、南町本房原合戦の供養塔と思われます。”


8 福師岳にある白坂家修験者の修行場跡(権現穴と不動明王)
修験者は、平安中期から教団として真言系または天台系に属するようになる。なお、大隅の修験道は、もともと大崎町飯隈山が中心であったようである。島津家は修験者を兵道家として重く用い、武士団の心の統一を修験者に任せた。一方、一般民衆は、修験者から災いや病を除いてもらうだけでなく、村の行事や年中行事、郷土芸能、学問などの指導者にもなってもらっていた。
鹿屋市吾平町には、先祖が山伏であった鎌田家、牧家、白坂家がある。その内、白坂家は吾平山上陵にあった鵜戸権現の社殿が、戦国時代に洪水で流失すると、それを再興するなど、古くから吾平山上陵と深い関係があった。その吾平山上陵の西方にある福師岳(282.6m)を、白坂家は霊場とし、修行したと伝えられている。
旧吾平町は、福師岳の大半を史跡と公園広場と森が共存する「福師岳町民ふれあいの森」として整備した。白坂家の仏道修行場の跡は、以下の地図の3ヶ所に現存している。今回は「権現穴」と「不動明王」に行った。

「権現穴」と呼ばれる洞穴には、白坂健一郎家の氏神様があると伝えられている。ここにある石祠には「~奉造立諸大権現 亨保十九(1734年)~」(今から約300年前)と刻まれている。権現信仰は古くから修験道と密接な関係があり、天台宗本山派の山伏とつながりがあった。白坂家の山伏は、ここに権現石祠を造立して修行したと考えられる。石祠の横には、苦しむ衆生を救ってくださる地蔵菩薩が安置されている。
岩山の表土が崩れて、以前にあった権現穴に通じる上り道が無くなったため、5mほどの高さがある岩の斜面を登る必要があった。今回、事前に手彫りの階段を作り、その先にロープを設置した。

「不動明王」は、阿多溶結凝灰岩の柱状節理が傾いてできた洞のような所にある。この地区では、不動明王を火の神と称している。ここに以前にあった石塔二基は土砂崩れで今はないが、その石塔に「奉建立不動明王 施主本良坊」「~明和六年(1769年)~奉造立本良坊秀尊」と刻まれていた(今から257年前)。本良坊とは、天台宗本山派の白坂本良坊である。ここの不動明王(大日如来の化身)は白坂山伏家の本尊であったと考えられる。この不動明王の前にごまだんを設け、ごま木を燃やして祈祷した後に、火渡りの修行をしたと考えられる。不動明王の隣に、頭部の欠けた地蔵がある。

今回は行かなかった「三尊石仏」は、福師岳の標高約200mの所にある岩屋の中にある。ここにある石祠の銘刻から、天明2(1782)年に白坂本良坊により、修験者の祈りと修行の場として建立されたと考えられる。一枚の岩に釈迦如来、文殊菩薩、阿弥陀如来の三尊が彫られている。三尊はいずれも中国風の僧服を着用し、同型の蓮台に座しておられ、向かって右上に太陽、左上に三日月があり、雲の群れが漂っているようである。


(文責:朝倉悦郎)