今年は戦後80年の節目の年にあたるため、11月16日(日)に鹿屋市と垂水市の戦争遺跡をバスで巡りました。一般応募の方9名、史談会役員8名の合計17名が参加しました。

大隅史談会の小手川清隆理事が鹿屋の戦跡4ヶ所を、また瀬角龍平会長が垂水の戦跡4ヶ所を案内・説明しました。

1 小塚公園慰霊塔(鹿屋市今坂町)

鹿屋基地は海軍の沖縄作戦における中核基地となり、昭和20年2月第五空艦隊司令部が置かれました。この基地から昭和20年3月11日、菊水部隊梓特攻隊(銀河13)が西カロリン諸島ウルシー泊地の米機動部隊攻撃に突入したのを皮切りに、3月18日には菊水部隊銀河隊の主力が米機動部隊の特攻に出撃しました。合計67隊、447機の猛攻が記録されています。

鹿屋基地から特別攻撃のため飛び立った約900名の若き特攻隊員の御霊を祀るため、昭和33年3月鹿屋市及び海上自衛隊鹿屋基地が中心となり特攻隊戦没者慰霊塔建立期成会を結成し、この碑を小塚丘公園に建立し、例年4月の第一土曜日に慰霊祭をとり行っています。塔の高さは11メートル、塔の上には南海の空に向かって飛び立とうとしている翼を広げた平和のシンボル、白鳩がのっています。

2 野里国民学校・桜花の碑(鹿屋市野里町)

人間爆弾「桜花」とは、大型の徹甲爆弾を搭載した小型の航空特攻兵器で、上空で落とされ、搭乗員が誘導し、敵に体当たりをする攻撃です。戦争末期にその作戦を行った神雷部隊が宿舎としていた旧野里国民学校跡地に建つ「桜花の碑」は、昭和20年春、南海へ出撃していった隊員たちを祀るために、神雷部隊の特攻隊員であった小城久作氏が建立したものです。当時、報道班員として神雷部隊と生活を共にした作家・山岡荘八氏が揮毫しました。隊員たちが最後の別れの杯を交わした地であることも知られています。現地に今も野里国民学校の国旗掲揚台跡が残っています。

3 高須トーチカ(鹿屋市高須町)

米軍の本土上陸に備えて海岸部に作られたトーチカ(陣地)です。コンクリートののぞき窓は海岸方向に向けられています。戦闘では使用されなかったが、すぐ近くの金浜海岸に進駐軍が上陸しています。

4 進駐軍上陸地の碑(鹿屋市高須町)

東京湾上の米戦艦ミズーリ号の甲板で降伏文書の調印式が行われた2日後の昭和20年9月4日に、進駐軍アメリカ海兵隊2,500人が高須の金浜海岸に上陸しました。湾内・高須沖に21隻の艦船が来て、金浜に乗り上げた揚陸船は3隻。最初に船底からブルトーザーが下ろされて、海岸から県道へ登る崖(高さ約10m)に2時間位で自動車道が開通しました。当時の日本人の常識では、何日も要する難工事でした。当時、鹿屋の多くの人々が進駐軍を恐れ、山間部に逃れたと言われています。金浜海岸の南側の県道68号線沿いに、平成13年3月に高須町内会の有志が建てた「進駐軍上陸地の碑」があります。

5 垂水海軍航空隊跡(垂水市柊原)

垂水海軍航空隊は1944年(昭和19年)2月に設立された航空隊で、91式航空魚雷の整備教育を行いました。91式魚雷は、旧日本海軍で大戦中使われた唯一の航空魚雷です。97式艦上攻撃機や天山・流星などの、対艦船攻撃を目的とした艦載機に搭載されました。飛行場を待たない航空隊で、浜平の道の駅から見える魚雷航跡監視台場跡が遺構として残っています。雷爆練習生約800人、甲種飛行予科練習生約600人が卒業し、全国の航空基地や空母に配属されました。国道沿いに「垂水海軍航空隊之碑」と「平和祈念之碑」が隣接して建っています。関連情報が添付資料中にあります。

6 第六垂水丸慰霊碑(垂水市上町)

昭和19年2月6日(日)9時50分に垂水港を出港した垂水汽船第6垂水丸、122トンは乗客700人以上を乗せて転覆、沈没しました。日本史上で2番目の死者数を出した海難事故でした。この日は西部18連隊の最後の面会日であり、大隅各地の町村から戦場に行く前に一目会いたいと重箱に御馳走を手にした乗客が押し寄せました。乗船券が手に入らなかった人も桟橋めがけて走ったといわれています。船長が危険を感じ出港を見合わせていると軍人が日本刀で脅し30分遅れで出港しました。船の定員は340名でしたが、2倍を超える700名を超える人々が乗船しました。船が200m沖で方向転換しようとバランスを崩し転覆しました。死者は540人でした。この事故は戦争がもたらした事故とも言えます。遺族名簿もなく昭和51年岩崎産業初代与八郎氏が33回忌法要を行い、現場近くに慰霊碑を建立しました。

7 海潟造船所跡(垂水市海潟の協和地区脇登)

太平洋戦争中のガダルカナル島の戦いで多数の輸送船舶を失った日本政府は、昭和18年(1943年)に木造船の大量建造に乗り出しました。海務院の要請に応じて、脇登・迫田地区に昭和18年7月23日、日本郵船系の「海潟造船株式会社」が設立されました。県内には他に鹿児島含め5つの木造船舶会社がありましたが、海潟では他と違い最大規模250総トン型が製造されました。木造機帆船「第二十一郵船丸」などが建造され、海軍の徴用船として活動しました。造船所では従業員約2千名が働いていましたが、終戦後、枕崎台風や桜島昭和噴火などの被害により昭和21年(1946年)11月に解散しました。関連情報が添付資料中にあります。

8 海軍航空桜島(牛根)基地(垂水市牛根麓)

桜島(牛根)海軍航空基地は、1945年(昭和20年)に設置された水上機基地です。水上機基地であった指宿基地が空襲で使えなくなったため、秘密裏に設置されました。この桜島(牛根)基地には、比島戦から多大の戦果を挙げていた水上爆撃機瑞雲20機と零式水上偵察機を零式水上雷撃機に改修した雷撃機10機、哨戒偵察機6機を配し、海軍航空史上初の玄海・桜島(牛根)両隊で130機を越える水上機による攻撃大部隊として、本土決戦に備えていましたが、8月15日には大戦終結となりました。関連情報が添付資料中にあります。

牛根海軍航空基地跡の碑の横には、大隈半島と桜島の間の海峡は、〝国旗「日の丸」のふるさと〟であることを示す「日の丸発祥の地」のモニュメントがあります。

研修後に参加者の記念写真を撮りました。

今までの現地研修の情報は、大隅史談会のホームページの「現地研修」にあります。

(文責:朝倉悦郎)