終戦後、米軍は関東の厚木と鹿屋を最初の占領地と決定し、東京湾上の米戦艦ミズーリ号の甲板で降伏文書の調印式が行われた二日後の昭和20年9月4日に、進駐軍が鹿屋の高須にある金浜海岸に上陸しました。
金浜海岸の南側の県道68号線沿いに、高須町内会の有志が建てた「進駐軍上陸地の碑」があります。


当時の地元の状況を、高須国民学校の校長であった新弘(しんひろむ)氏が、「昭和の陣痛 ― 進駐軍 高須金浜上陸の記録 ―」という本に克明に書き残しています。この本によりますと、進駐軍の2500名が上陸する前日の9月3日の夕方には、ほとんど全家庭が親戚や知人をたよったり、山に避難して、高須の町は無人の町になりました。


翌日4日、湾内・高須沖にたくさんの艦船が来て(他の資料によると21隻)、金浜に乗り上げた揚陸船は3隻。最初に船底からブルトーザーが下ろされて、海岸から県道へ登る崖(高さ約10m)に2時間位で自動車道が開通しました。当時の日本人の常識では、何日も要する難工事であったそうです。米国の物量と科学力に裏付けられた戦力に圧倒されたと、この本に書いてあります。

(文責:朝倉悦郎)