4月23日に、肝付町にある道隆寺跡に鎌倉の建長寺(臨済宗建長寺派の大本山)から、9年ぶりに吉田正道管長他7名が来られて回向が行われた後に、近くの本城集落センターで昼食会が開催されました。極めて稀で貴重な機会であるので、「大隅史談会」と「鹿屋ふるさと探訪会」のメンバーも参加させていただき、その後に吾平と笠之原の史跡を巡りました。

1 鎌倉の建長寺ご一行の道隆寺跡での回向

 10時過ぎに道隆寺跡に、鎌倉五山の中心的存在である建長寺から9年ぶりに第240世の吉田正道管長(85歳)とお弟子さん他7名が来られました。福谷平氏、永野和行肝付町長、大慈寺の石田和尚、地元の人々など約90名で、道隆寺後の入口で御一行をお迎えした。なお、吉田館長が最初に道隆寺跡に来られたのは平成21年(2009年)です。以下の集合写真は米永新人氏に提供していただきました。

 建長寺の御一行が読経をされたのは4ヶ所で、掘り出された多くの五輪塔が並べられた北側の小道(以下の写真の左側)、道隆禅師像の前(以下の写真の右側)、竹之井 敏先生の墓(五輪塔)前、観音像前です。

 その後、本城集落センターで昼食会となり、参加者の交流を深めました。

2 飴屋敷観音(吾平町上名飴屋敷)

 上名飴屋敷の東用水路の東上にある観音(総高174センチ)で、台石に「惟眨(これとき)享保六(1721年)辛丑(かのとうし)六月吉祥日」(今から304年前)と刻んであり、完形の石像で真に立派な観音です。吾平町内にある7体の観音を代表する観音です。明治の初めの廃仏毀釈の「諸仏うちこわし」のときに、石像の観音だけは災いをのがれました。

3 本車田の田の神像(吾平町上名車田)

 県内でも珍しい山水付きの田の神像です。白質粗面の岩を丸彫りした像で、山水を表現したと思われるものが刻み添えてあります。像の髙さ83センチ、山水の高さは43センチ。渦巻模様のシキをアミダに被り、袖の長い上衣と熟着け袴をつけています。左手はメシゲ、右手はスリコギを持つが、スリコギの上部は欠けています。おだやかな面相は珍しくよく残っていて、頭上にも胸元にも更に小さい仏像が付けてあります。像の傍らの、小山水の面には磨崖仏風に小仏像らしいものが浮彫りしてあります。この山水は修験道場としての山を示していて、その山から現れた効験あらたかな僧を田の神としたことを教えているものと思われます。

4 持田水害記念碑(吾平町下名持田)

 昭和24年6月20日夕方よりデラ台風が来襲し、吾平から高山に行く県道(今の73号線南側の旧道)の南側の窪地にあった排水口が詰まったため、台風による大雨でその窪地に多量の水が溜まり、その水圧で県道が決壊して、県道北側の谷間にある持田集落に濁流が襲いました。地元の人達が昭和42年に設置した持田水害記念碑には、死者26名の名前と年齢の他に、被害状況(家屋流出41戸、負傷者数十名、牛馬の死亡15頭)、復旧恩人 坂口助次郎町長と書かれています。

【備考:坂口助次郎(1883~1959年;明治15年~昭和34年)】鹿師範卒•小学校長•薩摩郡社会教育主事•私立商工学校長、第13代村長・第1代町長であった。敗戦で困窮し、打ちひしがれた村民を奮い立たせ、町制を進展させるために尽力した。具体的施策は、①困窮した町民の食料難を打開。②町の行政機構を刷新し、町制を実施。③吾平中学校の創設、町立の定時制高校の設立。桜島の大正噴火の時は、垂水の新城小学校の校長で、町民を元気づけるために、小学校でガリ版刷りの広報紙『新城時報』を毎月発行したことでも知られています。

5 権現島(吾平町下名権現島)

 下名の井神島の南にある田の中の小山が権現島で、ここに伝説があります。この付近は肝付氏と島津氏が戦った場所と伝えられています。肝付勢は、この辺りのぬかるみに大木を浮かべ、島津勢を迎えました。島津勢は、ぬかるみと大木に悩まされて、けが人と死者がたくさん出たそうです。もちろん、肝付勢にも沢山の犠牲者が出て、戦いの後で、死者とその鎧、兜、刀など多くの物を権現島に埋めたそうです。その後、夏の夜には権現島から巨大な鬼火(青白い火)が、高山町の本城(高山城、本城集落センターの横にある)へ向かって飛んで行くそうです。

 権現島の頂上には、徳丸権現(徳丸神社)があるので、権現島と呼んでいます。この神社の神様は、鵜草葺不合命と猿田彦で、天文3年(1534年)に造られたと伝えられています。島津家11代島津忠昌は永正3年(1506年)に肝付家14代の肝付兼久の居城である高山城を攻めているので、伝説の両軍の権現島付近での戦いは、この時代の頃のことでしょう。なお、高山城での合戦では、肝付氏を支援する軍勢が多く、高山城は陥落せず、島津軍は鹿児島に引きあげました。島津忠昌はその2年後に自殺しました。

6 姶良郷下名人配・永代移者顕彰碑(吾平町下名川崎)

 江戸時代初期(明暦・万治)から幕末期までの約三百年間、薩摩藩では、薩摩半島(西目)から大隅半島(東目)に人を半ば強制的に移動させて、農耕をさせる政策をとりました。この強制移住の圧政には、苦悩したり不満をもった人が少なからずいたはずです。ただし、藩政以後は、自由を求めて大隅半島に移住した人が多かったそうです。

 この政策を「人配」と呼び、読み方は「にんべ」または「にんばい」です。移った人々を「永代移者」と呼び、名寄帳に加え、門(かど)の籍に入れました。人配の対象は、門百姓はじめ郷士・町人にまでおよんでいます。

 姶良郷(今の吾平町)への移住者の場合は、薩摩半島から鹿児島湾を藩船でわたり、高須・浜田を経て瀬筒峠を越えました。この峠は、永代移者が故郷の薩摩半島を望む最後の場所であったので、「人配峠」と呼びます。その後、大姶良、南を経て姶良に着きました。この道筋を「人配街道」と呼びます。現在の吾平町の4軒に1軒は「人配」による移住者の後裔であろうと言われています。人配の人たちは、用水路開拓、新田開発、畑地開発に努め、今日の「美里(うましさと)吾平」の美田をつくりました。吾平町下名の姶良川の吉田橋の近くに、「姶良郷下名人配・永代移者顕彰碑」が有志により平成9年に建立されました。永代移者が田畑の開拓に貢献し、吾平の発展に寄与した記念碑です。

7 笠之原の登り窯の跡(笠之原焼を訪ねる)

 『三國名勝図会』によると、笠之原には薩摩藩の人配政策により、不毛の地を開拓させるのが主な目的で、初め宝永年間(1704年 ~ 1711年 )の初年に伊集院苗代川の朝鮮人の30余戸が耕作のために居住し、それから約80年後の寛政年間(1789年 ~1801年)より陶器を作り始めました。この地は水がないので約55mの深い井戸を掘り、高麗国の霊神を崇め祭る玉山宮(今の玉山神社)を造りました。

 移住した人たちは農耕の暇々に製陶に従事したので、製品は日用雑器が主でした。笠之原焼は陶法、釉ともに苗代川同様であるが、やや粗雑な感があって、胎土も荒々しい。徳利などの胴部には地名が箆書(へらが)きしてあるものが多いです。

 幕末ごろになると笠之原も人口増加したため慶応2年(1866)11月、80家351名が笠野原から8キロほど離れた現在の大姶良星塚敬愛園の近くの萩塚町に分住しています。昔は萩塚原、あるいは笠之原の南にあたるので南居原(なんきょばい)とも言っていたといいます。

 笠野原窯の様式は朝鮮伝来の半円筒形単式傾斜窯であったといわれています。現在伝世している製品は苗代川の堂平窯跡の”黒もん”とよく似ています。徳利の底部には貝目を使用しています。(『日本の陶磁』9 薩摩 向田民夫著より)

 毎年、春は旧暦2月14日、秋は旧暦8月14日に玉山宮にて大祭が行われます。この春と秋の大祭は神降ろしの神事が行われていました。その他には「山登り祭」という祭りも行われ、集落の人々が山舞楽(さんぶらく)と呼ばれる小高い丘に登り、春は豊作祈願、秋には野菜や穀物を奉納する収穫祭が行われていました。現在、山舞楽の大木の下に、朝鮮の名前が刻まれた祠と、昔の陶器が残っています。

 笠之原西墓地には、「笠之原移住300年記念碑」もありました。

 玉山神社の山門で参加者の集合写真を撮りました。配布資料を添付します。

(文責:朝倉悦郎)