11月17日(日)に大隅史談会の現地研修会が開催されました。今年はバスでの『大隅の歌碑・句碑めぐり』でした。一般応募の方22名、史談会役員6名の合計28名が参加しました。
史談会の役員による案内・説明で、野口雨情の詩碑(鹿屋市)・夏目漱石の俳句(肝付町)・日高藪仙の歌碑(肝付町)・道隆寺の歌碑(肝付町)・山頭火の歌碑(志布志市)・夏井海岸(志布志市市)・肆部合(しぶあい)の板碑(志布志市)を見学しました。
1 野口雨情の詩碑(鹿屋市の城山公園)
昭和15年5月、野口雨情が鹿屋を訪れ、「鹿屋小唄」を作りました。作曲は鹿屋出身の音楽家伊地知二朗。詩碑は昭和54年6月に除幕し、鹿屋少年少女合唱団と信愛ママさんコーラスが「鹿屋小唄」、「七つの子」などの合唱をささげました。鹿屋小唄の歌詞は配布資料中にあります。
2 夏目漱石の俳句(肝付町の長能寺跡にある野村傳四の墓)
明治13年に高山で生まれた野村傳四は、東京帝国大学英文学科で教授であった夏目漱石の弟子となり、漱石の弟子の中で最も愛され、小説『三四郎』のモデルであると言われています。傳四が結婚するときの祝いとして、漱石から袱紗(ふくさ)に染めて贈られた俳句「日毎ふむ艸(くさ)芳しや二人連」が傳四の墓の裏に刻まれています。
3 日高藪仙の歌碑(肝付町の昌林寺跡)
日高藪仙(そうせん)は文政5(1822)年に生まれ、性格が剛直で世に合わず医者となりました。清廉で文雅を好み、同郷の先輩の宇都宮東太とともに、和歌を鹿児島の薩摩桂園派の歌人・山口利夫に師事しました。碑には以下の和歌二首(原文は変体仮名を含む)が刻まれています。詳細は添付資料2をご覧ください。
はし鷹の尾総の鈴の音さえて霰降り敷く御狩野の原
鶯も知らぬ垣根に咲き初めて雪間ながらも匂う梅が香
4 道隆寺の歌碑(肝付町)
伯尾山道隆寺は、鎌倉時代の寛元4年(1246年)、南宋の禅僧である蘭渓道隆(大覚禅師)が開山しました。道隆寺跡を語り継ぐために建てられた歌碑の由来と碑に刻まれた短歌を学び、歌の小道に掲示された短歌を作者が詠んで、歌人の森山良太先生が感想を述べられました。
5 種田山頭火の句碑(志布志市)
種田山頭火は明治15(1882)年に山口県佐波郡(防府市)に生まれた自由律俳句の俳人です。各地を放浪しながら1万2000あまりの句を読みました。昭和5年に志布志を訪れ、46の句を詠んでいます。その中から13句が刻まれた碑が市内に散在しています。今回は志布志駅前とダグリの句碑を見学しました(以下の4句)。山頭火と彼の俳句に関する説明は、添付資料3をご覧ください。
一きれの雲もない空のさびしさまさる
志布志へ一里の秋の風ふく
こころしづ山のおきふし
海は果てなく島が一つ
6 夏井海岸の火砕流堆積物(志布志市大字夏井)
夏井海岸の約1kmの範囲は、南九州の主に海底火山(カルデラ)による大火砕流堆積物の地層が見える貴重な場所で、国の天然記念物に指定されています。地層の説明は、添付資料4をご覧ください。
7 六部父娘の辞世(志布志市大字夏井)
六部巡礼とは全国の66ヶ所の社寺・霊場を巡りお参りする信仰のことです。戦国の天正時代(1573~1592年)に、六部巡礼の父と娘がこの近くの夏井番所で差し止められました。夏井番所は薩摩藩の中でも特に厳しい境目番所で常時10名の番人が見張っていたといいます。父娘は何度も番人に懇願したが受け入れらなかったため、思い余って父娘は海に身を投じ、遺体はここの近くの瀬に打ち上げられました。二人を哀れんだ住民がその霊を慰めるために墓碑を建てました。墓碑には「天正十七年八月一日」の刻字があります。墓碑には身投げした父娘の辞世(下記)が記されています。
法(のり)の身に濁りあるとは汲んでみよ如何に夏井の関守の人
8 肆部合(しぶあい)の板碑(志布志市有明町)
肆部合の板碑は3基が確認され、うち1基は上部だけが残り、他の2基には梵字が刻まれています。板碑は死者の追善供養、または生者の逆修のための石塔です。薬師如来の板碑の下部には「暦応四年十月廿六日西念」(1341年)の刻字があります。年号の「暦応」は北朝年号で、同じく北朝の板碑は高須の波の上神社にあります。有明町内で刻字がある石造物では最古のもので、志布志市指定文化財です。配布資料中の添付資料5「大隅の南北時代の年表」で、この板碑が建てられた当時の時代背景を知ることができます。
「肆部合の板碑」の横で、参加者の記念写真を撮りました。
(文責:朝倉悦郎)