10月13日(日)に、南九州石塔研究会の秋季現地研修会がありました。研修テーマは「肝属郡肝付町に肝付氏石塔の形態を求めて」であり、4ヶ所の史跡を回りました。参加者は約40名でした。主な説明者は福谷平氏で、石塔の専門的な解説は主に藤浪三千尋氏が担当されました。
中野町正利会長の挨拶では、参加者は何か一つでも得るものがあって欲しいと言われました。
最初に文永5年に肝付五代兼石が創建した盛光寺の跡(肝付町前田西方)で、八代兼重以後の肝付氏一族の宝塔(15基)や宝篋印塔(28基)、五輪塔(62基)を見ました。
宝塔と宝篋印塔の形態の違い、時代や男女の見分け方などを教えていただきました。
良清軒跡(肝付町前田布尾田)は、対岸には求摩陣跡(くまのじんあと)があり、14代当主肝付兼久のときに、永正3年(1506年)に11代島津忠昌による高山城攻めがあり、多くの戦死者が出た場所です。入口にその戦死者の供養塔があり、その先には立派な青面金剛像(庚申塔)があります。
その奥に五輪塔、宝塔、宝篋印塔がたくさん並べられた所があります。特筆すべきは、肝付氏の飫肥氏系や検見崎氏系の石塔があることです。
寛元4年(1246年)に肝付4代兼員によって創建され、蘭渓道隆が開基した道隆寺の跡(肝付町新富本城下)では、五輪塔(220基以上)、宝塔(4基)、宝篋印塔(6基)、六地蔵塔(1基)などの多数の石塔が見学できました。島津6代氏久と7代元久の逆修供養塔もあります。
肝付4代兼員の納骨五輪塔(推定)、経塚、ヤグラ内の五輪塔もあります。
最後に、東串良町柏原の熊野神社境内にある肝付氏二代兼経夫婦の宝篋印塔を見学しました。鎌倉時代の巨大な二期の宝篋印塔であり、一基には相輪部(伏鉢から上部)が欠けています。周囲には仁王像(近世)や肝付氏の五輪塔と宝塔も見られます。
宝篋印塔の笠石の蓮花(蓮弁)は肝付氏を表しています。
各場所で参加者から多くの質問が出ましたが、専門家達の的確な回答に納得されたので、得るものが多かったことと思います。
(文責:朝倉悦郎)