平安時代に入ると、土地や人民は国家(天皇)に属するという公地公民制(律令社会)の維持が困難となり、荘園が発達します。荘園とは、一言でいうと地方の役人や貴族や寺院の私有地のことを指します。荘園で水田開発が進み、富が蓄積されて、武士集団の発生に繋がります。

鹿屋地域は島津荘、吾平地域は正八幡宮領、輝北地域の百引地区が島津荘、同市成地区が正八幡宮領、串良地域が島津荘として発達を遂げ、肝付氏と呼ばれる有力豪族の支配下にあったとされています。1197年の『大隅国図田帳』に大隅国正八幡宮(鹿児島神宮)領として姶良荘が記されています。恐らくこれは寄進地系荘園です。自分の荘園を有力な公家や寺院に寄進して、名義を変更することで租(税)を逃れ、それより低い割合で名義料を払うことにするようにしたものでしょう。以下は、中世における大隅地域の荘園の所在地を示しています(鹿児島県総合教育センターの「鹿児島県の歴史概観」より)。

原口虎雄先生は『吾平町誌(上巻)』に、平安時代に入ると今の吾平地域に正八幡宮領が発達して、全国に類例を見ないような大勢力となり、大隅の政治・経済・文化の中心地になったと、以下のように書いておられます。

「われわれが明瞭に注意せねばならぬこととして、天下の二大荘園たる島津荘と八幡社領とが、姶良(今の吾平)をいずれも大隅半島経営の拠点としていた事実である。(略)姶良では正宮領は五十町余分、島津荘は二十四町六反二丈であるから正宮領の勢力が遥かに勝っている。この事実から推して姶良郷においては、建久( 1190~ 1199年)の頃、つまり源頼朝の時代には、姶良における政治・経済・文化の実権は八幡神社の掌中に握られていたことが判明する。」

今の鵜戸神社がある所にあった八幡神社は、明治4年(1871年)に、今の吾平町中福良に移転しましたが、時代が大きく変わろうとする時期の平安時代に、大隅半島支配の中心地であったことは特筆すべきことです。

吾平町史(下巻)によると、吾平町麓地区にある山古城(やまふるじょう)跡は、「平判官良宗が万寿三年(1026年)以後、荘園を姶良に開いた時の居城で、その子孫の得丸氏が数代居住していたと伝えられている。「得丸氏古系図」によれば、平判官良宗の子孫は、良高、良門、良包、良長、良兼、良綱、良世とつづき、良包の次男は良成(西迫名相伝之き、得丸名内也)である。良高(姶良庄惣領、得丸名相伝)の子孫が代々得丸名を相伝していた。良宗の子孫がこの城に居城していたものであろう。」