サツマイモ本土初伝来の地は大隅半島の高須だった!という驚くべき本・右田守男著『サツマイモ本土伝来の真相』(東洋出版)が出版されました。
著者の右田守男氏は、大隅史談会の『大隅』誌の第60号と第61号に「カライモ翁前田利右衛門」異説論を投稿され、主にその論説を元に本書の刊行となりました。

通説では、サツマイモは今の指宿市山川の漁師・前田利右衛門が、宝永2年(1705年)に琉球から薩摩に持ち帰り普及したと言われています。それにより飢饉の時に多くの民衆を飢餓から救いました。

前田利右衛門が功績者となった根拠の発端は、江戸時代末期1843年に編纂された薩摩藩の地歴書『三国名勝図会』 に書かれた次の文章です。「利右衛門 は、 大山村岡児ヶ水浦の漁戸なり。土人の伝えに、宝永二年(1705年)乙酉の年、甘藷を央( 鉢)に植えて琉球より携え帰る、是より甘藷暫く諸方に広まり、人民その利益を蒙るといふ。」
さらに、明治時代になってから名乗り出た人物の前田という苗字が、さかのぼって「前田利右衛門」という名前として一般に定着しました。

しかし著者によると、江戸時代に漁師が前田という姓を持つことはなく、また当時の漁師が山川から 約760キロ余り離れた遠方の琉球に出かけて漁をすることはありえず、さらに実像を示す決定的な資料もないなどから、漁師の前田利右衛門が琉球からサツマイモを持ち帰ったことはありえないと主張しています。

著者は、ご先祖の右田家の家系図、時代背景、サツマイモのルーツを再検証して、実際は親・子・孫の3代に渡って官途俗名を世襲した高須の薩摩藩士・右田利右衛門が、琉球からサツマイモを持ち帰り、大隅、薩摩地方に普及させたとして、上記の通説を覆しました(根拠となる情報の詳細は本書で確認してください)。

なお、「利右衛門」伝説により、 指宿市徳光神社近郊等に3基の利右衛門の頌徳碑や墓石等が建てられていますが、大隅半島にも唯一と思われる利右衛門の石碑が肝属郡串良町下中に現存 しています。串良川の土堤に、家形石碑の水神、真ん中の石碑、左端の小さな利右衛門碑の3基の石碑があります。
三角頭の利右衛碑には次のような文字が刻まれています。「唐芋元祖 一翁祖元居士  山川児ヶ水之俗名利右衛門」。俗名の「衛門」の辺りから土に埋もれています。

この利右衛門碑に関連して、筆者は承応元年(1652年)8月に島津光久が高須右田仮屋に宿泊された理由を、当時実施されようとしていた串良下中における新田開発の指導や視察のためと推察しました。とする と、この串良下中顕彰碑に記された唐芋元祖に引き当てられる人物とは、当時島津藩の在地役人として光久を現地まで案内したであろう、右田利右衛門尉秀純(当時46歳)と息子右田利右衛門尉秀門(当時16歳)の二人が該当するとしています。

なお高須には、今はさら地となった右田邸跡があり、以前は本書にも書いてある蘇鉄と祠がありました。以下は平成29年(2017年)の写真です。