内之浦の国見岳の山頂(標高886.5m)にある国見権現(高屋山上陵)に11名で行きました。

頂上付近の狭い山道を覆った草と木を、ビーバーとチェーンソーで取り除いてから山頂を目指しました。

山頂には山幸彦(彦火火出見尊:ひこほほでのみこと)を祀(まつ)る祠(ほこら)があり、文化14年(1817年)の銘がある石灯籠をはじめ、古石塔があります。

頂上の彦火火出見尊(山幸彦)を祀る祠の前で、修験者でもある神主様から一人ずつお祓いをしていただきました。

国見岳山頂からは、内之浦や柏原、志布志、鹿屋方面の景色が見渡せました。

明治5年(1879年)までは、宮内庁は高屋山上陵は国見岳にあるとしていましたが、それが霧島市溝辺町になった経緯を、窪壮一郎著『明治維新と神代三山陵』(法臧館)により以下に説明します。
神代三山陵は、日本神話に登場する神々である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、彦火火出見尊(ひこほほでのみこと)、鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)の陵墓の総称です。

神代三山陵を考証した学者は多く、例えば古くは薩摩藩の国学者の白尾国柱(しらおくにばしら)が、寛政4年(1792年)に『神代山陵考』を著し、神代三山陵がすべて薩摩藩に存在することを主張しました。
行政機関の筆頭の神祇事務局に命じられて、三雲藤一郎と三島通庸が明治2年(1876年)10月に出した結果は次のとおりです。
・ 可愛山陵(瓊瓊杵尊)= 新田神社のある八幡山(現・薩摩川内市)
・ 高屋山上陵(彦火火出見尊)= 内之浦の北方村国見岳(現・肝付町)
・ 吾平山上陵(鸕鷀草葺不合尊)= 上名村鵜戸の窟(現・鹿屋市)

明治5年6月に明治天皇が鹿児島に巡幸された際には、鶴丸城から皇祖の眠る薩摩川内市の可愛山陵、内之浦の高屋山上陵(国見権現)、鹿屋市の吾平山上陵の三山陵を遙拝されました。
ところが、明治7年(1881年)の神代三山陵治定の裁可では、高屋山上陵は姶良郡溝辺村神割岡に変更され、確定したのです。この変更の背景には、当時神社奉行として辣腕を奮っていた田中頼庸(よりつね)の建白が容れられたためと伝わっています。