6月9日に「鹿屋ふるさと探訪会」の14名で、鹿屋市内の川東、串良、笠之原の史跡をめぐりました。
川東の古墳群は、南北朝時代から戦国時代にあった宮之城の跡にあり、古墳か塚かも確定していない不思議な文化財です。
次に近くの竹林の細い道を下ると、宮之城跡の石塔群があります。鹿屋氏と思われる宝篋印塔1基、戦国時代初期の肝付氏主流「朝露○友上座」の銘がある宝篋印塔1基他に五輪塔10基残欠があります。
住宅地に下りると、江戸時代の田井村の聖地であった場所に、民間信仰の石像群があります。六地蔵塔、破損部が少ない庚申塔、大日如来信仰があったことを示す駒型石碑、田の神像です。
光同寺通り横の早馬原に、文化8年(1811年)の銘がある馬頭観音と燈明台があります。石の風化が進んでいました。馬頭観音は人々の苦悩を救うことを本願とする観音様であるといいます。最近は牛馬の守り神として信仰されていることが多いです。この近くには多くの馬頭観音があります。
次に戦跡である川東掩体壕と地下壕第一電信室を見学しました。川東掩体壕は、笠之原基地の零戦を格納していたといわれています。串良にある地下壕第一電信室は、串良基地から飛び立った特別攻撃隊員が突撃前に送る電信を受信していた地下施設です。
小原台地突端部に、山城の白寒水(しらそうず)城が鎌倉末期頃に築かれ、二の丸跡に鎌倉初期から室町前期の多数の逆修五輪塔と、南北朝期の板碑1基が置かれています。この地方の開田作業に携わった人のものです。ここには十一面観音堂もあります。
富ケ尾の甑島移住民碑は、天明の大飢饉のときに、天明4年(1784年)3月に甑島から大隅国串良郷有里富ケ尾に47家族205人が移住してきたことを示す記念碑です。なお、天保の大飢饉の際には、大隅国高山郷前田村上之馬場に40家族150人が移住しています。
最後に笠野薬師跡に行きました。創建は大隅地方で最も古く、奈良時代の和銅元年(708年)です。元明天皇の勅願により、日向国に3薬師を建て行基作の薬師如来像(坐像)を安置したといいます。和気清麻呂が大隅に配流の折、笠野薬師に詣で近くに南柳山安楽寺を建てたと伝わります。ここの仁王像は町指定文化財です。石塔群は南北朝から戦国時代の肝付氏や冨山一族(大姶良氏)のものです。
「鹿屋ふるさと探訪会」への参加を希望される方は、白井森芳氏(☎090-3735-1246)に連絡下さい。試験的に1,2回参加される方も歓迎します。