江戸時代の大隅・薩摩の農民の税金(年貢)はどれくらいだったのでしょうか。書籍や郷土誌をもとに、調べてみました。

薩摩藩の農民は収穫の8割を納税させられました。”八公二民”の天下一の高税率(高年貢率)でした。当時の全国平均は、四公~五公でした。
鹿児島大学教授であった原口虎雄の「鹿児島県の歴史」(山川出版社)では九公一民前後だとし、また「鹿屋市史」には十公0民の例もあります。高税率であったのは、薩摩藩の武士が他藩に比べて多かったこととも関係がありそうです。

大隅・薩摩の地質は、大半がシラスなどの火山噴出物であり、稲作の不適合地でした。中村明蔵著「薩摩 民衆支配の構造」(南方新社)によると、一郷当たりの米の収穫量は、畿内(今の行政区分では奈良県の全域、京都府の南部、大阪府の大部分、兵庫県の南東部)の32%であったので、農民の手元に残る米の量は微々たるものでした。

その他に、賦役(農民のような特定階級の人々に課せられた労働)、公役(共同の奉仕作業)、年貢以外の納物などもあったので、薩摩藩の農民の負担の重さは計り知れません。賦役・公役には、軍役、新田開発、災害復旧、仮屋・寺社の修理、道路修理、郷士宅の修理などと余りにも多かったのです。なお、「鹿児島県の歴史」には、公役は月に10日前後と書かれています。

薩摩の農民と違い、大隅の農民は農業以外の職に付けませんでした。農民たちは原野や藪を開墾して食料を得ることに努めねばなりません。農民たちはこの強制農耕に苦しめられました。

薩摩藩は、藩内の113ヶ所に士族の住む「麓」地区を設けて、農民への監視を厳しくしていたので、農民は一揆も起こせず、今のように転職もできず、困窮の挙句に夜逃げや身売りする者が多かったそうです。
吾平でも長期間にわたって、逃散(他地域に逃げること)した者が相続きました。例えば、安政6年10月に、吾平郷欠落者59名との記録があります。

ある郷土史家は、「当時の大隅の農民には生活がなく、生きていくので精一杯であった」と言っていました。そのような農民の労苦の上に、今日の大隅の発展した農業があるのです。

(文責:朝倉悦郎)