江戸時代初期(明暦・万治)から幕末期までの約300年間、薩摩藩では、西目(薩摩半島)から東目(大隅半島)に人を半ば強制的に移動させて、農耕をさせる政策をとりました。移動の対象者は、門百姓はじめ郷士・町人にまでおよんでいます。

この政策を「人配」と呼び、読み方は「にんべ」または「にんばい」です。移った人々を「永代移者」と呼び、名寄帳に加え、門(かど)の籍に入れました。門とは、農民を数軒から多くても20軒程度のグループに分けて支配する制度で、そのグループには地名などからとられた門名(かどな)という名前が付けられました。

薩摩半島の農耕は、狭い田畑が多く密集し、大地の谷間にある水田、川端にある腰まで入り込む水田が多かったそうで、田畑の収穫は平均以下でした。当時の常食は、米10、薩摩芋20、粟30、蕎麦・麦10という割合でした。しかし現実は、米飯は盆と正月だけであったといいます。

江戸時代後期には、東目の人口減少と農村荒廃が激しかったので、耕地面積に対して過剰人口の西目から人配が繰り返されました。西目の口減らしもあったようです。なお、藩政以後は、自由を求めて大隅半島に移住した人が多かったそうです。

鹿屋市吾平町下名には、姶良川の吉田橋の近くに『姶良郷下名人配・永代移者顕彰碑』が平成9年に建立されました。永代移者が田畑の開拓に貢献し、吾平の発展に寄与した記念碑です。
碑文は『大隅』第51号(2008年)で読むことができます(「森田慶信先生追悼記」 竹之井 敏)。

現在の吾平町の4軒に1軒は「人配」による移住者の後裔であろうと言われています。
姶良郷(今の吾平町)への移住者の場合は、薩摩半島から鹿児島湾を藩船でわたり、高須・浜田を経て瀬筒峠を越えました。この峠は、永代移者が故郷の薩摩半島を望む最後の場所であったので、「人配峠」と呼びます。その後、大姶良、南を経て姶良に着きました。この道筋を「人配街道」と呼びます。

人配の人たちは、それぞれに定められた門に入り、用水路開拓、新田開発、畑地開発に努め、今日の「美里(うましさと)吾平」の美田をつくりました。下の写真は、今の下名地区の水田地帯です。

(文責:朝倉悦郎)