志布志湾に面した前川の河口付近のシラス台地の東端に、内城(うちじょう)・松尾城・高城・新城の4つの中世山城が存在しています。

いずれも石垣や天守閣はなく、地形を利用した要塞のような4つの山城を総称して「志布志城」と呼びます。山城は戦いの時に立てこもる城であり、戦いのない平時には城主は城の外で生活していました。
平成17年に内城の全体と松尾城の一部が国の史跡として指定を受けました。

城跡は深く切り立った空堀で切り離された平坦地(曲輪;くるわ)が特徴です。以下の写真は内城の曲輪の本丸跡と矢場跡です。

志布志城の中心的な役割を担った内城は、山城部分だけで南北約500m、東西約250mの大きな規模になります。
志布志市埋蔵文化センターには、内城の復元模型が展示されています。すごいですね、崖のこの傾斜!

正確な築城年は不明ですが南北朝の時代には松尾城と内城が存在していたことがわかっています。建武3年(1336年)に、「救仁院志布志城」の肝付氏が重久氏に攻められた記録が残っています。

志布志城の城主は何度も交代しており、記録に残る城主は、肝付氏→楡井(にれい)氏、畠山(はたけやま)氏→新納(にいろ)氏→豊州家(ほうしゅうけ)島津氏→肝付氏→島津氏の流れとなります。

志布志に広大な山城が築かれたのは、この地が重要な港であったからです。海外との貿易で資金面で潤い、また兵員や物資の輸送に便利な軍事的な要所でした。それが志布志城の城主が次々と変わった大きな理由と考えられます。