田中良八は文政6(1823)年、垂水の新城の大浜で浦人・田中善兵衛の長男として生まれました。明治12(1879)年立春のころ、漁業の先進地山川に視察に行き、滞在した旅籠でお茶請けとして「琉球豆」という珍しい豆が出されました。旅籠の主人の話によると、それは中国から琉球へ伝わった「落花生」で、南京豆、地豆などと呼ばれ、琉球から戻ってきた人の土産にもらった豆だということでした。

良八はその豆に興味をもち、10粒をもらって帰りました。
4月初め頃、持ち帰った種を試しに植えてみたところ、秋にみごとな収穫となりました。

当時、農漁民の社会的経済的な地位の向上を目指していた良八は、換金作物を主体とする農業経営が必要だと考えていました。というのも新城は西南戦争の敗戦によって精神的に物質的に大きな打撃を受け、戦後の復興は大きな課題だったからです。そして換金作物として落花生は有望作物でした。

さらに、村ぐるみで増産計画を進めることが良策と考えた良八は、落花生栽培5ヶ年計画・栽培要項・指導要領を作成して戸長の中村思無邪氏を訪問し、説得に努めたのでした。また明治16(1883)年には花岡村の戸長を訪ねて落花生栽培を始めることを勧めた結果、花岡は落花生の一大生産地となりました。

《良八の和歌》
年とれば心かたちも弱くなる勉強するなら若いうちぞよ

(参考文献・・永田時吉編集兼発行『落花生翁田中良八伝』、上園正人「落花生翁田中良八について」―『七岳』第20号)