柳井谷の陣跡は、永正3(1506)年11代島津忠昌が高山城主14代肝付兼久を攻撃したときに、総大将がいる本陣とした所です。

2ヶ月かけた大合戦で、両軍の放つ矢は空中でぶつかり、折れた矢が谷間に散乱しました。土地の人々は、この谷間を「矢おれ谷」と呼んでいましたが、それがなまって「柳井谷」というようになったそうです。
この合戦では、肝付氏を支援する軍勢が多く、高山城は陥落せず、島津軍は鹿児島に引きあげました。
合戦後、土地の人々が折れた矢を拾い集めて塚に納めました。その塚を「矢塚」と言い伝えてきました。


今年の1115日(日)に開催する「現地研修会」で行く所です。