11月1日に鹿屋の「ふる里探訪会」のメンバー15名で、根占地区の史跡巡りをしました。
最初に7月1日に亡くなった前会長・白井森芳氏のお墓参りをするために、錦江町馬場に行きました。墓前で、参加者の集合写真を撮りました。

根占の史跡巡りの最初は、「鬼丸神社」です。植物学上貴重な暖帯林の中にあり、祢寝重長(しげたけ)を祀っています。重長は、ロウソクの原料にするハゼや温州みかんの苗を海外から輸入して、殖産興業に力を入れました。
鬼丸神社の近くに、享保16年9月8日(1731)に建立され県文化財の指定を受けた田の神像もあります。通常、笠冠布型と称し、台に団子と餅を彫刻、右手杓子、左手に摺小木を持った高さ147センチの堂々とした田の神です。

根占地区には板碑が多いですが、その中でも有名な横馬場の「建武の板碑」は、祢寝氏六代清保のために子息が建武2年に建立した供養塔であり、身頭に梵字のバン(金剛界大日如来)が刻んであります。仏教信仰が厚かったことが分かります。

九州で一番古い(明治16年創設)図書館である根占図書館の二階にある「南大隅町歴史民俗資料室」に行き、日本とアメリカで活躍した画家で絵本作家の八島太郎の作品と、米軍機に撃墜された日本軍の戦闘機の紫電改と呼ばれる機銃などを見学しました。その他にも多くの展示物があり見応えがありました。

ネッピー館の前に「旧陸軍海上艇 特攻基地記念碑」があります。旧陸軍海上艇は第二次世界大戦時に大日本帝国陸軍が開発・実戦投入した小型肉薄攻撃艇で、艇尾に爆雷を懸架する形式でした。根占では、実際には使われずに終戦になりました。なお以下の写真の右側は、海軍の特攻艇「震洋」(ウィキペディアから)です。

祢寝氏の「御灰塚(おはいづか)」は天正8年(1580)3月16日大姶良で死んだ祢寝重長を荼毘にふした跡です。重長の7回忌に岩松主膳らがこの地を石垣で囲み六地蔵を建立しました(祢寝名勝誌)。本来の六地蔵は以下の写真の右側のような形状をしています。
16代祢寝重長の時代、大隅連合(肝付、伊地知、祢寝)対島津氏が抗争を繰返しました(13年戦争)。しかし、重長は島津氏と和睦し、島津氏から鹿児島で歓待されたが、その帰途、体調が急変、高須に船を着け野里の小牧城に身を寄せました。しかし、恢復せず亡くなり、島津方に「ちん毒」をもられたという説もあります。
昭和44年に、ここを発掘調査したときに大量の古銭(宗銭等)が出土ました。祢寝氏の中国、琉球、南蛮との交易(倭寇でもあった)を物語る遺物です。

真言宗の勝雄寺の開山は慶禅法師で十六世まで続きましたが、以後廃絶しました。小松清重が父の六代高清の冥福を祈るため創建しました。文禄四年(1595年)吉利に移封された時、この寺も移しました。「勝雄寺跡の古石塔」は2つあります。山川石製の月輪塔婆は南九州にしか存在しない塔婆で、慶長年間の僧の名前が刻んであります。山川石製の五輪塔は、逆修搭で、四面に梵字を刻んだ本格的なものです。天正年間の僧名が刻まれています。

「祢寝氏累代の墓」は川南北之口墓地内にあり、付近は家累代の菩提寺である宝屋寺跡です。
祢寝5代清治から16代重長までと夫人の墓20基があります。供養塔は五輪塔型(婦人)と宝篋印塔(ほうきょういんとう)型(主人)です。祢寝5代清治から16代重長までと夫人の墓20基があります。これらの墓は祢寝氏24代小松清香が祢寝氏から小松姓に改めた時、宝暦年間の佐多の郡にある4代までの墓と共に、この地に先祖の墓碑を修造したものです。
川南北之口墓地内には、珍しい小型の板碑が二基あります。

今回見て回った史跡の場所を以下に示します。

(文責:小手川清隆、朝倉悦郎)